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二章 彼が得たもの
1.
三日経った頃にエルに指摘されて、そういえば彼女の名前を聞いていないことに気付いた。言葉自体が通じないので、ほとんど身振り手振りで生活していた為、あまり必要性を感じなかったのだ。一緒に住んでいるのだからそれくらい知ってて損はないはずだ。というか、知ってなければ絶対におかしい。
「トリゴエキサ」
彼女は自分を指差して、はっきりそう言った。
「トリ・ゴエ=キサ?」
グレイが繰り返すと、なんだか彼女の眉が寄った気がした。首を傾げるグレイの隣で、キサはエルに説明し、伝えるように言ったようだった。
「トリゴエがファミリーネームで、キサが名前だって」
エルは、キサの作った料理を食べながら言った。
グレイもエルもあまり食に関心がないので忘れていたが、そういえばグレイの料理は上手くもまずくもない未知の味がするのだった。そのせいで、キサは居候なのに自分が作ると言って聞かず、エルの家でまで作り始めたくらいだ。彼女が言うには(もちろんエル越し)、こんなものを毎日食べていたら体調を崩す! とのことらしい。
しかしまあ、それを毎日、そう十一年も食べ続けている割にエルは体調一つ崩さないし、グレイも耐性があるので全然平気で、そんなことはないとも思った。
「さすが違う世界。名前の並びが少し違うんだな」
グレイは感心して言う。
グレイの名はエスト・フェンディーン=グレイというが、エストが苗字で、フェンディーン=グレイが名前だ。微妙に似てはいる並びだが、=が付かないのが面白い。
「キサ!」
キサは自身を指して、そう声を上げる。妙に作り変えて呼ばれたのが腹立たしかったらしく、それを呼べと主張しているようだ。
「ああ、じゃあ、グレイな」
グレイが自分を指差して言うと、キサは少し首を傾げて。
「アージャア・グレイナ?」
食事中のエルが、それを聞いてグッと喉を詰め、咳き込んだ。ツボにはまったらしい。
「……グレイ」
グレイは額に手を当てて、疲れたように言う。
「グレイ? グレイっ!」
キサは納得したらしく、繰り返してにっこりした。
(うっ、可愛い……)
グレイは思わずそれに見とれ――そこでここにはエルもいるから気を付けねばと気持ちを引き締める。グレイが見とれていようが、彼の顔面筋肉はとうの昔に固まっているので、別段顔に出ることはなかったが。
その後、食材が切れかかっていることをキサが告げ、エルに言われて買出しに行くことになった。
(自分では作らないくせに、材料がないとすぐこれだ)
グレイは内心溜息をつきつつ、買出しと聞いて目を輝かせているキサの姿にまあいっかと思い直す。
(キサにはここの言葉を覚えてもらわないとな……)
でないと、竜語を話せる人間などこの国には一握りしかいないので、どこに行っても意思疎通ができない。
買出しに行くことになったはいいが、どうしたものかなとグレイは困った。
市場に行って、魚売り場を歩いている時、ふいにキサが立ち止まってある魚を見つめていた。最初は不思議そうな表情で、だんだん睨みつけていく。
(なんで魚に喧嘩を売ってるんだ、この人)
意味不明だ。
やがてキサは魚を指差して、グレイを振り返る。これを買いたいとのことらしい。
エルの金なので、気にせずグレイは買う。まあどっちにしろ一般的な魚だ。羽根の形をしたえらが生えてる、空飛魚という名の。浮き島群集地帯によく浮いている魚だ。
それでキサは満足したらしい。
次は野菜の方へ軽い足取りで歩いていく。
グレイは魚を抱えた格好で、急いでついていく。この人混みではぐれたら、見つけ出すのが大変だ。
『これは?』
『コデルカ。果物、甘い』
『じゃあ、こっち?』
『ピリリエント。甘酸っぱい。野菜だ』
こんな風に、竜語で問うてくるキサに対し、グレイは竜語の単語を用いて答える。
言葉を覚えてもらう必要はあるが、まだこの世界に来て三日目だ。あまり強制する気はないから、グレイが辞書を引きながら会話している。
「キサ」
ふいに、グレイは教えておかなくてはいけない事柄を思い出した。
グレイが真面目な声でキサの名前を呼んだので、未知の野菜を前に浮かれていたキサは不思議そうに振り返った。それがはからずも上目づかいになり、グレイはうっと詰まった。女性に耐性のないグレイには、美人なキサのいちいちの動作がこたえる。キサは“美しい”とか“優雅”というよりも“可愛い”といったほうが良いのかもしれない。動作が「女の子」だ。
『何、グレイ?』
『一つ、注意をする』
『注意?』
『前、俺に、握手したよな?』
『……? ああ、したわね』
一瞬、何を言われているのかよく分からずきょとんとしたものの、キサは三日前のことを思い出して頷いた。
それから少し顔色を青くして、恐る恐る訊く。
『握手、駄目なの? 怒る?』
グレイに対し、出来るだけ単語で区切って問うてくる。でないと、竜語が分からないグレイは意味を掴むのに時間がかかることを理解しているのだ。
『怒る。ない。握手、特別。意味、プロポーズ』
どうやら握手がタブーな文化だと思ったらしいキサに、グレイは慎重に、丁寧に答える。
『…………』
キサは目を点にして黙り込む。
やがて顔を赤くし、大声で叫ぶ。
『ええ―――っ!!』
そして叫んだかと思ったら、急にグレイの襟首を両手で掴み、がんがん揺さぶり始めた。
『ええっ、何それどういうこと!? プロポーズですって! 私、そんなつもりで握手したんじゃないからね! だって握手っていうのは、友好とか親交とか、互いの健闘をたたえあうとか、そんな意味なんだから!』
「ちょ、キサ、やめっ」
早口でまくしたてられて、竜語に疎いグレイには何を言っているのか理解不能だが、どうやら衝撃を受けて慌てて否定しているのは雰囲気で分かった。
『ねっ、分かってるわよね!? 私はここの文化なんか一つも知らないんだから、チャラよ、チャラにしなさいよっ! いやあああ、告白したことなんてないのに、知らないうちに告白に一カウントなんてーっ!』
『分かった。分かったから、放す』
首を絞められすぎて、だんだん目の前がかすんできたグレイである。息も切れ切れに言うと、ハッと我に返ったキサが目を丸くした。
『キャーッ! ごめんなさい、グレイ! でもグレイも悪いのよ! そういうことは前もって教えてくれなきゃ!』
「ゴホゴホ、ゲホッ。……? 分からん」
よく分からないが、頭をペコペコ下げていることから謝っているらしいことは分かる。その後、何やら怒っているのが謎である。謝っているのと怒っているの、どちらが正しいのか。
グレイが理解しようにも分からなくて困惑しまくっていると、ふいに横合いから近づいてくる足音に気付いた。
(この足音……、最悪だ)
足音だけで誰かに気付き、グレイは咄嗟にキサの腕を引いて背後に隠した。