日常やネット小説の更新記録、商業小説のお知らせなどを書いています。
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3
青年が出してくれたご飯は、パンを小さく切ったものに野菜と肉を加えて焼いたものだった。
「…………」
初めて見る料理に言葉を失くすキサに、青年はフォークを指して食べるように促す。
「ものは慣れよね………」
そう思い、恐る恐る料理を口に運ぶ。
そしてすぐに眉を寄せた。
「う……まずくはないけど、おいしくもない……」
自分の味覚がおかしくなったのかと思い、もう一口食べてみる。
「…………」
キサはどうも自分の味覚が悪いのではなく、青年の料理がただまずいだけだと気付いた。そっとフォークを机に置く。
『どうした?』
首を傾げる青年に、皿を押して食べるように促す。
促されるままに食べた青年は、無表情のまま目を反らした。
どうもまずいことに気付いたらしい。キサはキッと彼を睨みつけると、立ち上がった。
青年がぎくりと後ろに下がる。
「どうやったらこんなまずいものが作れるのよっ! 食を馬鹿にすんじゃないわよっ!!」
キサは食べ物に関しては並々ならぬ情熱を寄せている。好き嫌いはない。そして美味しい物が大好きだ。
青年の料理は料理ではない。ただの食材の無駄遣いだ。
青年はキサの言葉が分からないらしいが、キサがこの世界に来た当初よりも激怒しているのを感じたらしい。情けない顔をしている。
一方のキサはそんな青年には目もくれず、台所に向かった。
すぐに冷蔵庫のような箱や、野菜籠の中を勝手に検分すると、適当にいくつか取り出し始める。見たこともない食材ばかりだった。
慌ててついてきた青年が呆然とする前で、まな板に乗った包丁でどれもこれも少しずつ切って口に放りこみ、味を確かめる。調味料も全部そうやって確かめた。
そして難しい顔をして、しばらく食材を睨みつけていたキサであったが、すぐにフライパンのようなものを出し皿も出しと勝手に調理具を取り出し、カウンターに並べていった。
「よし!」
キサは一通りの準備を終えると、壁に引っ掛けてあったエプロンを引っつかみ、身に付ける。それから野菜を洗い、切っていく。何の肉かは分からなかったが、鶏肉に似た肉も切る。
次にフライパンを手にし、どこにコンロがあるか分からずきょろきょろとした。コンロでなくてもいいから竈でもないのか。
「火はどこなの!」
キサは立ち尽くしている青年を振り返り、フライパンを無意識に右手で振り回しながら問う。
青年はフライパンを目にしてどうにかキサの言いたいことをつかんだらしい。台所の奥に置いてあるテーブルを指差した。
「何?」
キサにはただのテーブルにしか見えない。天板の下はからっぽだ。普通の木製のテーブルにタイルを敷き詰めただけのものだ。
青年は仕方なくテーブルの前に行き、上部を指差した。よく見るとタイルに円状に文字が書かれている。それを指差し、円の手前の三角形の模様に触れる。途端に音もなく火がついた。
「すごっ!」
キサは目を見張り、まじまじとテーブルを見つめる。
そんなキサの前で、青年は大円から少し離れた右側に、縦に一列に並んだ小円を指し示すと、一番上に触れる。するとどうだろう、炎が大きくなった。次に青年の褐色の指が一番下に触れると、炎が小さくなった。
「なるほどね、そうするんだ。燃料がないなんて変なの」
キサはつぶやき、フライパンをその上に乗せた。後は普通に調理するだけだった。
「うん、おいしい! 食事はこうでなくっちゃ」
キサはにっこりして自分の作品を食べた。
「あんたも食べなさいよ」
思い切り戸惑って、もう一つの皿に乗った料理を前にしている青年にキサは声をかける。折角作ったのだから食べて貰わなくては困る。
青年は仕方無さそうに前の席に座ると、料理を一口分フォークで刺し、口に運んだ。そして目を丸くしてつぶやく。
『美味い』
それからぱくぱくと食べ始める。
「当然!」
青年の言葉は分からずとも、言っていることは何となく分かったので、キサは胸を張って言った。食通を舐めてもらっては困る。
空腹を満たしたことですっかり機嫌を良くしたキサは、今までになくにこにこと笑いながら食事を終えた。
腹が減っては戦は出来ないのだ。キサは頑張ろうと思った。大丈夫だ。目の前の迷惑張本人に無理矢理にでも協力させて、あの金髪男の鼻を明かし、自分の世界に戻ってやる。
「頑張るわよっ」
突然、拳を固めて気合を入れたキサを、青年は不思議そうに見る。
「あんたも協力してよね! よろしく」
キサが右手を差し出して握手を求めると、青年は絶句したようだった。
「何よ?」
キサはむっとして無理矢理青年と握手し、再びガッツポーズする。
『…………』
そんな、ある意味たくましいキサを、青年は唖然として眺めていた。
4
まさか握手されるとは思わなかった。
件の少女は一時期落ち込んでいたとは思えない程、今は一人で盛り上がっている。神経が図太いのだろうか。それとも空元気なのだろうか。どちらか分からない。
分からない、のだが。
グレイは顔に熱がたまるのを感じた。
この国では異性間での握手は婚約の意味があるのだ。
違う世界の者だから分からないのは当然としても、女性に免疫のない彼はすっかり上がってしまっていた。
もちろん肌の色と無表情のせいでそんな風には見えない。
(落ち着け。きっとこの女の国じゃ握手は挨拶程度のものなんだ)
動揺を抑える為、茶を飲み干す。
すると何とか動悸がおさまった。内心ほっとする。
それからグレイは改めてキサを観察してみた。
胸元まである黒髪と黒目。グレイとほぼ同じ色合いのものだが、肌の色は象牙色だった。
(白とは違うし、何だ、黄色に近いな)
この国では珍しい色合いの肌だ。エズ国はエルのような白い肌の人間とグレイのような褐色が多い。キサのような色合いは西方に多いと人づてに聞いたことがある。
(どう見ても異国人だが、美人だ)
エズ国では小柄な女性が美人とされている。だから間違いなく眼前の少女は美人の範囲だった。
例えキサが自分の国では平凡な一日本人で、むしろ地味な方だろうと、この国ではそうではなかった。当然だがグレイはそんなことは知らないのだが。
そんな彼の考えなど知る由もなく、キサは食べ終わった皿を集めて台所に運んでいった。習慣というものは恐ろしいもので、無意識にしてしまっている。
その余りの自然さに、思わずグレイもやらなくていいと声をかけるタイミングを逃した程だ。
キサは炊事場で皿を水に浸しながらふと思い当たる。
(よくよく考えてみると、私、ここであいつと暮らすってことなのかな)
同棲、という言葉が浮かんできて、少し顔を赤くする。
(嘘、どうしよう。生まれてこのかた十九年彼氏一人出来ず、知らない奴と同棲? でも他にどうしようもないわよね。見る限り、あの人そこまで裕福そうじゃないし)
もしかしなくても自分の存在は迷惑かもしれない。
しかしキサは思い直した。
(でも一番迷惑こうむってるのは私よ! 何をしょげる必要があるの? 迷惑料に宿と食費を提供して貰うだけのことよ!)
キサは大きく頷いた。
こうなったらあっちが不本意だろうと、鮫に寄生するコバンザメみたいに、無理にでもひっついていくしかない。そうじゃないと、言葉すら通じないこの世界で生活なんて不可能だ。
(そうよ、これは同棲じゃなくて、共生よっ。私はクマノミで、あっちはイソギンチャク。うん、我ながら良い考え方だわ!)
ある意味、キサはポジティブに考える天才だといえた。
皿洗いを終えてキサがリビングに戻ると、青年の姿はなかった。奥の部屋の扉が開いており、物を動かすような音が聞こえてきた。
キサがその部屋に顔を出すと、青年は何やら荷造りをしているようだった。
「何やってるの?」
キサの呼びかけに、本を運んでいた青年は顔を上げる。
それから困ったような顔をして、さっきテーブルに置いていた分厚い本を開いた。しばらく真剣な顔で本を見ていた彼は、本を見たままたどたどしく言う。
「ここ、俺、部屋。あんた、ここ、住む。俺、そっち、住む」
突然聞こえてきた日本語にキサは目を瞬いた。
青年の持つ本は語学の本というわけらしい。
そして彼はこう言いたいらしい。自分の部屋を渡すから、キサにここで暮らせと。そしてどうやら彼はリビングの方の部屋で暮らす気らしい。
確かに女の自分はそっちで暮らした方が都合が良いだろう。着替えなどで一々悲鳴を上げずに済む。キサはありがたくその申し出を受け入れた。
「分かった。ありがとう」
キサが言うと、青年は分かったらしい。小さく頷いた。
それから何もしないのもさすがに悪い気がしたので――何せ彼の自室を奪うようなものなのだから――キサも手伝うことにした。青年は相変わらず無表情だったが、邪魔扱いはせずに頷きを返してくれた。
一章 共生という関係
1.
「師匠!」
血相を変えて食堂に飛び込んできたグレイに、驚いた様子も見せず優雅に紅茶を飲んだ後、エルは「何だ?」呑気な顔で振り返った。
そして、グレイが引っ張っている少女を目にして軽く目を見開く。
「師匠……困ったことになった。あんたの知恵を貸してくれ」
グレイは珍しく頬に冷や汗すら浮かべて、エルに頼んだ。
そんなグレイを面白そうに見ているエル。
「言っておくけど、痴話喧嘩の仲裁は他所を当たってくれる?」
ちゃかすように言うと、グレイはそこで初めて少女の腕を掴んだままであることに気付いたらしい。驚いたように手を離す。
「そんなんじゃない! いいから人の話を聞け!」
真面目に頼んでいるのにこの男はっ。
グレイはイライラしながら事の次第を話した。
「は? 竜を呼ぶ召喚式でこの子を召喚した?」
話の内容に、さすがの天才魔道師も唖然とした。
「どう見ても竜じゃなくて人間の女の子、それもなかなか美人な女性に見えるんだけどなあ」
エルは少女をじろじろと見て、人間じゃない点を見つけようと試してみた。しかしやはりどう見ても人間だった。
少女――キサはエルの視線の不躾さにキッと彼を睨みつけた。
幾ら金髪碧眼の綺麗な顔をした三十代男性だろうと、失礼なものは失礼だ。
『何じろじろ見てんのよ! いいからさっさと夢から起こしなさいよ!』
キサの文句を聞いて、エルは面白いことを見つけたという顔になった。
「あんた、こいつが何を言ってるか分かるのか?」
彼なら普通になんでもこなせるので、分かっていても不思議はないとグレイは思った。
「うん、まあね。これは人間の言葉じゃない。竜語だよ」
「竜語!?」
「そう、一応竜っぽいとこはあったんだね。君も少しは進歩したじゃないか」
「感心してないでどうにかしろよ! こいつ、急に浮島から飛び降りようとしたりして大変なんだ!」
エルは目を瞬いて、キサを振り返る。
『ねえ君、君は自殺志願者なのかい?』
『わっ、言葉通じた! ……は? 自殺志願者? なんの冗談なのそれ』
キサは眉根を寄せる。
「グレイ、どうやら彼女に自殺願望はないようだよ」
「……そうか。それを聞いて安心した」
取り敢えず、ほっと胸を撫で下ろすグレイ。
『ねえちょっと! 無視しないでよっ。私夢から覚めたいんだけど、あんたどうにかしてくれない? 夢の中の人が話しかけてくるなんてファンタジーなセオリーはどうでもいいから』
キサが憤慨して言うと、エルはおかしそうに笑う。
「なんて現実主義者だろうね、この子。すごいよ、ファンタジーなセオリーはお断りだからさっさと起こせだって」
「……それはつまりこれが夢だと思っているということか?」
「だから空を飛び降りようとしたんじゃない?」
「…………」
グレイは沈黙する。確かにそれならあの異常行動も納得出来る。
エルは困った顔でキサを見、穏やかに言う。
『お嬢さん、あなたは夢だと思っているらしいがそれは勘違いだよ。ここの地味男が、召喚術の練習中に誤って君をこの世界に引き込んでしまったらしい』
キサはますます眉を寄せる。
『だからファンタジーはもういいったら』
『やれやれ聞く耳を持たない人だな。これは現実だって言っているんだよ、僕は』
キサは目をぱちくりと瞬いた。
そして意味を悟るなり顔色を真っ青にする。
『そ、それじゃ、これが夢じゃないなら、私はどうなるの? っていうかここはどこなの? 非現実的すぎるあんた達のファンタジーな格好は何!?』
『僕からすると君の方が非現実的なんだけどね。うん、まあ気持ちは分からないこともない。取り敢えず落ち着いて。はい、息吸ってー吐いてー』
キサはエルのペースに乗せられ、無意識に深呼吸をした。すると頭に昇っていた血が少し冷めた。しかし冷静になったところでこの現実をどう受け止めればいいのか。
『いいかな? ここはオルヴィア大陸の北国エズの、大都市イシリアだ。魔道師の国とも呼ばれてる』
『……いしりあ? 魔道師って、魔法使っちゃったりとかしちゃうの?』
『そういうことになるね。ただ君の中の“魔法”と同じかは分からないけど』
『童話や絵本で魔女が人間に呪いかけたりするのよ』
『―――。それはまた直接的だねえ』
感心するエル。その横でグレイは内心どうしたものかと首をひねった。自分が招いた結果とはいえ、魔法陣は間違っていない。呪文も間違った覚えはない。何がいけなかったんだろう。
『取り敢えず、グレイの魔法陣まで戻るよ。そこで君をここに引っ張り込んだ理由が分かるかもしれないからね』
『分かったわ』
キサが頷くと、エルは「よし」とつぶやいてグレイを振り返る。
「ともかく庭に行くよ。行ったところで彼女を戻す自信はないけどね」
グレイは意外そうにエルを見る。
「あんたでも自信のないことがあるのか」
「当たり前だろう? 僕は人間だ。神ですら完璧な存在でないのに、どうして完璧でいられるんだい? それにこんな事例は初めてだからね」
「……そうか」
グレイは押し黙ると、先行をきって庭へと歩みを進めた。
2.
グレイの魔法陣をじっと見ていたエルは、不思議そうに首を傾げた。
「おかしいな。どこも間違ってない」
間違っているのが当然だと言わんばかりの言葉に、グレイはじろりと師匠を見やる。
「ちゃんと本で確かめたんだ、当然だろ」
「それじゃ“言葉”が間違ってたのかな? グレイ、君が口にした文章を復唱してみて」
グレイは頷き、言うとおりに復唱した。
するとエルは目をまん丸に見開いて、頭を抱えた。
「なんてことだ、完璧じゃないかっ。おかしいぞ、これは世界の破滅の予兆か?」
「……そこはかとなく馬鹿にするな」
冷たくあしらうグレイに、エルはあははと笑う。
「だけど困ったね。これでどうして彼女を呼び出せたんだろう? 今日は特に天変はないし、気象も安定してる。第一不可解なのは彼女の“言葉”だ。完璧な竜語だからねえ」
『ねえねえ、それでどうなの? 私は帰れるの?』
相談を交わす二人に、キサは身を乗り出して問う。
二人は顔を見合わせる。
戻せそうにないと言ったら、彼女はどんなに取り乱すだろうか。
しかしそこはエル。あっけらかんと、女性皆が見惚れる笑みを浮かべた。
『うん、結果から言うと、無理だね』
あっさりと放り投げられた言葉に、キサはフリーズする。今、こいつはなんて言った?
『魔法陣も呪文も完璧だ。君がここに来たのは偶然で、神様の悪戯だね』
『…………』
偶然? 神様の悪戯?
悪戯めいた言い方に、キサはだんだん怒りが込み上げてきた。
『何が悪戯よっ! ふざけないでっ!』
『ふざけてない。大真面目だ』
エルは肩をすくめてみせる。が、顔は笑っていても目は笑っていなかった。
そのことに気付いたキサは文句を飲み込んだ。
穏やかそうな外見をしている癖に、なんて冷ややかなんだろう。急に目の前の男が得体の知れないものに見えて、恐怖を感じた。
押し黙ってしまったキサをちらりと一瞥すると、エルはグレイを振り返る。
「何はともあれ、君が呼び出したことに代わりはない。ちゃんと責任を取りなさい。そうだね、彼女の面倒は君がみるように。僕は相談には乗るけど、曖昧なことには力を貸さないから」
きっぱりと言われた言葉に、グレイは少女のことを申し訳なく思いつつ頷く。
「分かっている。あんたに面倒はかけないさ」
一見冷めた師弟のように見えるが、これが彼らにとって普通の在り方だった。必要以上に関わらない。面倒をかけない。そういうルールだ。
(まず、言葉をどうにかするしかないな……)
グレイは師匠の手持ちの本を頭に浮かべながら、今にも泣き出しそうな顔をしているキサに向き直った。
それから、大きく頭を下げた。
『…………』
キサはそれを無表情に眺めた。謝られたところで受け入れるしかないのだ、こちらは。
そしてグレイに促されるままに彼の後についていった。
(ほんとどうしよう……)
突然変わってしまった変化に、ただただ絶望にも似た暗い気持ちばかりが浮かぶキサだった。
グレイは貧しくはなかったが、かといって裕福というわけでもなかった。彼の両親はすでにこの世にはいないし、頼れる親類縁者もいないので、師匠の身の回りの世話をする代わりに給料を貰って生活しているのだ。
もちろんエルとは別々に暮らしている。第一あんな男と一緒に生活するなど、考えただけでも悪夢だ。あんないい加減男の面倒をみていたら、それこそ精神がもたない。
だからグレイは仕方なく、キサをヘリツ通り沿いにある自宅へ連れてくるはめになった。こぢんまりとしたアパートの一階がそうである。
(俺がリビングで生活して、奥の部屋を使って貰うしかないな)
グレイは自室を眺めて、あっさり決断を下した。
一人暮らしではあるが、独身故の哀しさに家事が得意な彼の部屋は割合綺麗だ。自室も殺風景な程片付いている。これなら大方の私物をリビングに持ち出せば、容易に空け渡せるだろう。
そのことを説明しようとして、そういえば言葉が通じないことを思い出す。
それで少女にリビングの椅子を指し示して、ここで待つように身振り手振りで教えた。少女は初め、不思議そうに首を傾げたが、すぐに意味を理解したらしい。こくりと頷いた。
グレイは大きく安堵すると、師匠に竜語の指南書を借りるべく部屋を出て行った。
残されたキサはというと、きょろきょろと興味深げに室内を見回していた。
「ここってやっぱりあの人の家よねえ?」
誰もいないのをいいことに、一人ごちる。
キサは半ばヤケクソな気分だった。
思い出せば思い出す程、さっきの金髪男のことが腹立たしくなってきたのだ。
「いいわよ! あっちがああいう態度を取るってんなら、私だって意地でも帰ってやるわ!」
はっきりいって妙な対抗意識だったが、そう思うとへこたれそうな自身の中に勇気が湧いてくるのが分かった。
人間、怒りが一番大きな行動力をもたらすようだ。例え内容が一方的な逆恨みだろうと何だろうと。
それからキサはばたりとテーブルに突っ伏すと、ううとうめく。
「お腹空いた……」
遅刻しかけたせいで朝食を食べていないのだ。どんな時でも腹が減るという状況は腹立たしいが、人間の三大欲求の一つなのだから仕方がない。
しばらくそうしていると、走る足音が聞こえて扉が開いた。あの青年が帰ってきたらしい。
青年は突っ伏しているキサを見て大いに驚いたらしい。
『おい、大丈夫か? 気分でも悪いのか?』
焦ったように何か尋ねてくるので、キサはお腹を押さえて、食べる仕草をした。
すると今度は呆れた顔になり、さっきはもっていなかった分厚い本をキサの前のテーブルに置くと、両手で待つようにと示し、台所の方に行ってしまった。
少し経つと、何かを焼くような音が聞こえてきた。
「まあ当然よね」
迷惑料はきっちり払ってもらおうと、キサは一人頷いた。
没作品まとめたら読む人いるのかなーと思って、試しにここに置いてみますよ。
実は一度も表に出したことがないまま、お蔵入りした作品。
二章まで書いて、飽きてポイしました。
一応、ラストまで考えてはいたんだけどねえー。
異世界トリップものです。
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序章
「おはよう、寝ぼすけ師匠殿」
何とも無愛想な声音に、師匠と呼ばれたゲイク・オルスタンド=エルは目覚めた爽やかさのまま微笑んで返す。
「やあ、おはよう。出来損ないの魔道師君」
あっさりと嫌味を返したエルに、エスト・フェンディーン=グレイは一瞬物凄く殴りたい衝動に駆られたが、すぐに気を収めた。この師匠のこの態度はいつものことだ。毎回切れていては疲れるだけ。
だがしかし、言いたいことははっきり言わせてもらうことにした。
「しれじれと“おはよう”なんて返すな。もう日は天辺にまで達している。どうしてあんたは朝に起きないんだ」
起こすこちらの身にもなれと、付け加えるグレイ。
エルはさっさと立ち上がって洗面台の方に向かいながら、うそ臭い笑みを浮かべた。
「そりゃあ、素敵なご婦人方とお喋りに興じていれば、夜も早く過ぎ去ってしまうからね。寝るのが遅いからに決まっているだろう?」
「この女狂いめ」
「何か言ったかい? もてない地味男君?」
ちゃんと聞こえているだろうにそう返す師が、更に腹の立つグレイだ。
しかし例えだらしなかろうが、酒好きだろうが、無類の女好きだろうが、この男は〈天辺に立つ金〉とも呼ばれる天才魔道師なのだ。それが一番、世界の謎と思えてならないが。
とにかく、エルはグレイの師匠だ。魔道よりも身体を用いた武術に優れる、まさに出来損ないで落ち零れの為に、どの師にも就けないでいたグレイを気まぐれに拾い上げたある種の恩人だった。
しかしだからといって、性格だけはどうも尊敬に値しない。こいつから得られるのはまさしく魔道の知識と技術だけだろう。
(何がもてない地味男だ。くそ、人が気にしていることを……)
グレイは普段通りの無表情だったが、眉を少し寄せていた。黒髪黒目に加えて肌は褐色という彼は、普通にしていても表情が読みづらいというのに、性格上無表情なので無骨な感じのする青年だった。
見かけも地味で、服装も黒と灰色という目立たなさ、加えて基本真面目な性格が災いして地味さに拍車がかかっている。
顔立ちは悪くはない。むしろ良い方である。だが彼らの暮らすエズ国では、魔道に長ける男こそが格好良い男だという見解がある為、落ち零れのグレイはからきし色恋沙汰には無縁だった。そして無縁のままにもう二十三という歳になってしまった。ここまで来るとかなり寂しいものがある。
グレイは寂しさに浸りかけていたが、一々エルの言葉に気にしていられるかと思いなおし、バシャバシャと音を立てて顔を洗うエルを睨みつけた。
「朝食……いや、昼食はいつものテーブルにある」
そしてそれだけ言い残すと、自身は召喚術の訓練の為に庭へと出ることにした。
「くくっ、ほんとにまあ、損な性格だこと」
グレイの言葉に、エルはタオルで顔をぬぐった後、おかしそうに笑った。
エルの家の庭へと通じる扉は、空間を渡る魔法がかかっている。
だから普段暮らしている空間とは違い、庭だけは空の上にあった。そう言うとかなり語弊があるので付け加えると、空に浮かぶ浮島の一つに繋がっているというのが正しい。
オルヴィア大陸の北国エズの、その中でも北部の上空は浮島の群集地帯になっており、空をぐるぐると一定の速度で移動しながら小さな島が宙に浮いている。そこの一つの島が、エルの所有地だった。
浮島というのは非常に便利な魔法の訓練場でもある。
何せ空に浮いているのだ。例え魔法に失敗しようが周りに被害が及ぶ心配はまったくない。
グレイは大きく深呼吸すると、地面に白チョークで慎重に魔法陣を描いていく。これがなかなか難しいのだが、グレイにしてみれば魔力の操作よりはずっと簡単な作業だった。
今回練習するのは竜を呼び出す召喚式だ。そうはいっても子供の竜か小型竜しか呼び出せないのだが。それでも、いつも練習している動物召喚よりは少しばかり難しい。
グレイは陣を書き終えると、難しい顔をして陣を睨んだ。間違いがないか手元の本と見比べる。よし、大丈夫だ。
一人頷き、グレイは魔法陣の前に立ち、手の平を下にして両腕を陣へと突き出した。
そして、召喚の呪文を唱えた。
* * *
キサこと、鳥越貴紗はその朝とても急いでいた。
「まずいまずいっ、寝坊しちゃった! 電車に遅れるーっ」
まさか目覚まし時計が電池切れで止まっているなんて思いもしなかった。
「もうお母さんてば、起こしてくれればいいのにっ!」
キサが八つ当たり気味に廊下で叫ぶと、母親がひょこりと廊下に顔を出して反論する。
「今日は大学がお休みなのかと思ったんだから、仕方ないじゃない。あんた、起こすと怒るでしょ?」
「そうだけどっ、それでもよっ!」
「はいはい、分かったから急ぎなさい。本当に遅刻するわよ」
母親は仕方無さそうに言う。
「分かってる! じゃあ行ってきますっ」
「行ってらっしゃい」
母親の声に押されるようにして玄関の扉を開けたキサは、履きかけの靴もそのままに外へと出た。
その瞬間、何故か足元が沈む。
「え?」
予想外とは、まさにこのことだった。
次には身体が一瞬の浮遊感とともに下に引っ張られる―― つまり落下していくのを感じた。
その感じの気持ち悪さに、キサは無意識に悲鳴を上げていた。
落ちたと感じたその後、突然まぶしい光の中に出た。すると一瞬だけ身体が浮いたが、すぐに無情にもそのまま地面に落ちた。無論膝から、である。
一体何が起こったのかさっぱり分からなかったが、とにかく打ち付けた膝が痛んで無言のまま膝を押さえるキサ。
「いったーい。もう、なんなのよ一体っ!」
悪態をついて顔を上げ、ぎょっとして後ずさるキサ。
一体いつからそこにいたのだろう。褐色の肌をした黒髪黒目の青年が目の前に立っていた。彼は呆然とこちらを見下ろしている。
「ドアの前に立たないでよっ、危ないでしょ!」
膝の痛みと青年の出現に、キサはイライラと注意する。こっちは遅刻寸前で急いでいるのだ。
しかし青年はというと、少し困惑した顔をしただけで謝りもしない。
(ったく、こんな奴に構ってる暇ないわ! とにかく学校…っ)
目的を思い出し、膝の痛みに耐えて立ち上がると、手にした鞄を抱え直し、青年の脇をすり抜けて走り出す。
が、すぐに立ち止まった。
「……何コレ」
自身のアパートの廊下のはずのそこには、どういうわけか空が広がっていた。
「えーと……」
フリーズしかける頭をそのままに、キサはゆっくりと周囲を見回す。取り敢えず状況確認が先だ。
キサの右手にはこぢんまりとした灰色の石材の家があり、前方・後方・左には小さな庭のようなものが広がっている。そしてさっきの青年の足元にはチョークで描かれた魔法陣のような模様が記されていた。
キサはしばらくこれをじーっと見つめていたが、ふと馬鹿馬鹿しくなった。
「何だ、夢か」
よく見るのだ。遅刻しかけて飛び起きる夢。その手の類だろう。
こんな馬鹿らしい夢からはさっさと目覚めてしまおうと、キサは頬っぺたをつねった。
「む?」
しかし何度つねっても痛いだけで目が覚めない。
そのうちだんだん切れてきて、ついには頭を抱えて叫ぶ。
「一体なんなの、この夢はーっ!!」
そして叫んだことですっきりし、何となく原因だと思われる青年を振り返ってにっこりと笑い、問答無用で襟首を掴む。
「ねえ、ちょっといーい? この夢ってどうやったら覚めるの?」
青年は、キサが笑っているが本気で怒っているらしいことに気付いたらしい。唐突に頭を下げた。
『すまないっ!!』
「は?」
キサは相手の言葉が分からず、眉根を寄せる。しかし態度から申し訳なく思っているらしいことだけは分かった。
「まったくもう。夢の中の魔法使いならお爺さんがセオリーでしょうに何で青年だとか、普通夢なら言葉分かるだろ、とか突っ込みたいとこはたくさんあるけど。とにかくやっぱり言葉が最優先よね」
キサはぶつぶつと悪態をつく。我ながら妙な夢だ。
「そうよね。こういうのは大抵、空から落ちたら目が覚めるものよ」
そして一人で結論を出すと、青年を放っておいて庭の端に歩いていく。
『おい、危ないぞ!』
青年が何か叫んでいるが、言葉が分からないので気にもかけず、キサは変な夢だ変な夢だと首を傾げながら、大して考えもせずに庭の端から飛び降りた。
が、しかしその直前に青年に腕を掴まれ、引きずり戻された。
『危ないって言っただろ! 何やってるんだ、死ぬ気か!?』
物凄い剣幕で低い声で叫ぶ青年の姿に、ようやく何かがおかしいと感じ始めるキサ。
「だって、これ、夢でしょ?」
きょとんと訊くが、相手にもキサの言葉は分からないらしく、けげんな顔をされただけだ。
青年は何故かそこで溜息を吐くと、掴んだままのキサの腕を引っ張って、家の中に入っていく。
「なんなの、いったい」
まったくもって危機感のないキサは、引っ張られることが不快で険しい顔をしながら、仕方なく青年の後についていった。